なぜ、わたしたちはネットコミュニケーションを続けるなかで疲れたり、イライラしたりするのだろう?*1ネットコミュニケーションは誰もが気軽に友達になれる魔法の手法ではなかったのか?
原因のひとつとして、オフラインのコミュニケーションではあまり目立たない「相手にとってだけの知人」がオンラインのコミュニケーションでは目立ちうるということが考えられる。「友達の友達は友達ではない」ことを「友達」にまざまざと見せつけられることによって、わたしたちは疲れたりイライラしたりするのかもしれない。
この文章では、時にアーキテクチャがわれわれに夢を抱かせ、時にアーキテクチャがわれわれの首をしめるということを考えたい。
「6次の隔たり」仮説は「友達の友達は友達」というが本当にそうなのか?
「6次の隔たり」という仮説について説明している以下のリンク先を確認されたい。
これは「人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになれる」という仮説であり、mixiなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の設計思想のベースになっている。
ややもするとこの考えは「間接的な」という部分が忘れられて「友達の友達は友達だ!」と安易に捉えられがちな傾向があるように思われる。しかし間接的でない直接の「友達」であっても、親しい友達もいればそれほどでもない友達もいる。また「友達の友達」には、自分にとっても友達である「共通の知人」と自分にとっては他人である「相手にとってだけの知人」とがある(詳細については後述する)。
このような内実を度外視して、表面的な思想だけを楽観的にウェブサービスのアーキテクチャに組み込むとしよう。ユーザーは当初は、それが表面的な理解によるものであっても、その思想の斬新さに魅力を感じることだろう。しかし、彼らはやがて、そのアーキテクチャでは表現しえない部分があることに気づく。さらに、その部分が今後も改善されないことにうすうす気づくことによって、そのサービスに対して何らかの不満をもつようになる。結果として彼らはこのサービスを捨てて、もっと居心地のいい場所を探す旅に出るかもしれない。これはmixiを利用していたときにわたしが切実に感じた苛立ちでもある。
確認事項1:コミュニティの種類と特徴
さて、この文章の表題を「場と派閥と知人」とした。まず「場」とは何か「派閥」とは何かについて考えたい。場や派閥を構成するものとして、現段階では次のようなものを想定している。
- 大きなコミュニティ:何らかの目的のために人が集まるための場所。血縁関係などの先天的なコミュニティは除く。(i.e. 会社、学校/twitter、mixi、2ch、etc.)。
- 中くらいのコミュニティ:大きなコミュニティの中に設定された区分け(i.e. 部署、クラス/mixiコミュニティ、スレ、etc.)
- 小さなコミュニティ:対人関係の親疎を基準としてコミュニティ(大、中)の中に形成された派閥(グループ)。
これらの規定をもとに、ここからは、
- 「場」=大・中コミュニティ
- 「派閥」(グループ)=小コミュニティ
というまとまりを仮定しよう。上記の区分のうち、この文章で中心的な役割のひとつを果たすのは後者である。
確認事項2:コミュニケーションの参与者の種類と特徴
次に「知人」とは何かについてを考える。そのためにいくつかの道具立てを行なう。下の図をじーっと、見つめて下さい。
この図には、基準点として「自分」と「相手」が設定されている。相手という概念は相対的なものであるので、混乱を来す危険性があるが、ひとまず「名前が伏せられた知り合いのあの人」という把握で話をすすめたい。あなたの具体的な知り合いを設定していただいても結構である。
「知人」のいろいろ
上の図では「知人」という属性を考えるために「自分」「相手」を設定した。いよいよ「知人」である。「知人」とは何か?何の気なしに「知人」という言葉を考えると「自分と面識がある人」という程度の意味になりそうだが、ここではもう少し細かい見方をとりたい。
まず、出発点として「知人」は「自分」と同じグループに属していることとする(この条件は後で変わる)。
また、ひとえに知人といっても親しさには遠近がある。
- 親しい知人:面識*2があり、マンツーマンで対話できる。素朴な直感として「友達」「友人」と呼べるのはこのレヴェルであるように思われる。
- 親しくない知人:面識はあるが、マンツーマンで対話できない。
さらに、所属を共有するか否かを考慮に入れることで、知人は「自分だけの知人」「相手にとってだけの知人」「共通の知人」に分かれる。
- 自分だけの知人:「自分」は属しているが「相手」は属していないグループに属している。
- 相手だけの知人:「自分」は属していないが「相手」は属しているグループに属している。
- 共通の知人 :「自分」と「相手」と「共通の知人」は同じグループに属している。
「共通の知人」はさらに、次の2つに分けられそうである。
- 共通の知人α:「自分」と「相手」が個別的に接触することで面識が出来た人。「自分」にとっても「相手」であるし、「相手」にとっても「相手」である。
- 共通の知人β:「相手」を介して共通の知人に格上げされた元「相手にとってだけの知人」。
参与者の表示の簡略化
以上のコミュニケーションの参与者のそれぞれを、「自分」を基準とした極性をもった素性の集合として簡略表示したい。参与者を特徴づける素性として次のようなものを設定する。
- 所属先の基準(co-group):自分と同じグループに属しているか否か。
- 面識の基準(acquaintance):面識があるか否か。
- 親疎の基準(man-to-man):マンツーマンで対話できるほど親しいか否か。*3
以上の素性と、「自分」「相手」という基準点を用いることで、「知人」という属性の内実を表し分けよう。これは主に、2種類あると考えられる。ひとつは「2項関係をベースにした属性」であり、いまひとつは「3項関係をベースにした属性」である。
2項関係をベースにした属性
この関係は自分と相手によって構成される2項関係なので、「自分」を基準とすれば表現できる。キーとなる素性は当然、〈親疎〉である。
- 親しい知人 :[+co-group,+acquaintance, +man-to-man]
- 親しくない知人:[+co-group, +acquaintance,−man-to-man]
3項関係をベースにした属性
この関係は自分と相手と第3者によって構成される3項関係なので、「自分」(I)と「相手」(Y)のそれぞれの視点からみた表示にする必要がある。
- 自分だけの知人:I[+co-group,+acquaintance]Y[−co-group,−acquaintance]
- 相手だけの知人:I[−co-group, −acquaintance]Y[+co-group,+acquaintance]
- 共通の知人:I[+co-group,+acquaintance, φman-to-man]Y[+co-group,+acquaintance, φman-to-man](φは極性がニュートラルな状態)
- 共通の知人α:I[+co-group,+acquaintance,+man-to-man]Y[+co-group,+acquaintance,+man-to-man]
- 共通の知人β:I[+co-group,+acquaintance,−man-to-man]Y[+co-group,+acquaintance,+man-to-man]
ジェラシックパーク:「自分」をイラつかせる空間
ここまで(ネット)コミュニケーションのありかたを見つめるための道具立てとして「場」「派閥(グループ)」「参与者」の特徴について検討した。ここからは冒頭に示した次の問題をこれらの道具立てを用いながら考えたい。
- なぜわたしたちはネットコミュニケーションを続けるなかで疲れたり、イライラしたりするのか?
結論として次が思い当たる。
- オフラインのコミュニケーションではあまり目立たない「相手にとってだけの知人」がオンラインのコミュニケーションでは目立つため。
「相手にとってだけの知人」の存在を示唆されることは、自分の理解の範囲でとらえていた相手が実際は別の世界でも生きており、そしてその世界が自分とは関係ないことを「自分」に気づかせる。
さらに相手が「自分も属しているグループ」と「相手だけが属しているグループ」のどちらに帰属意識を高く置いているかということも「自分」をイライラさせる。
あえて比喩的な説明をとるが、このような事態はオフラインの関係では水面下で展開され、(人にもよるが)当人が気づけるようになる頃にはゲームは終了している*4。
しかし、オンライン上の「場」で展開されるコミュニケーションの場合、人と人とがふれあぅためには、その間にある種の関係性を明示化するアーキテクチャが介在せざるをえない。例えば、mixiやtwitterなどのSNSは、知らない人同士がひとつの場所に集まって好き勝手に生きているさまを明示化し、条件があえばふれあうことができ、また外部の既存のふれあいをSNS上に写像できる点が画期的であったが、その一方で、相手が自分とは無関係なグループで楽しんでいるさまをも明示しうるのである。
オフラインであれば注意を向ける必要がなかった人や事柄に注意を向けることを強いるアーキテクチャになっているから、われわれは疲れる。好きでもないけど嫌いでもない、つまり興味がない人の存在がちらつく。しかも「相手」は彼らとふれぁっている!そのような「共通の知人β」や「相手だけの知人」とどう接するのか。そもそも接する必要があるのか?以下で2つの対策を提案する。
対策1:ポガティヴなアプローチ(ジェラシックパークの回避)
ひとつめの対策としてポガティヴなアプローチをみる。これは、ネガティヴな事象を把握した上でそれを「回避する」やりかたである。
たとえば、Twitterの場合なら「リスト機能」をつかうことがよろしかろう。リストには「相手」「自分だけの知人」「共通の知人α」だけを登録してデフォルトではこのリストだけをtwitterとして見ることにしよう。これで「共通の知人β」や「相手だけの知人」を表面上はフォローしつつ、彼らを眼前から消すことができる。
また、ニコニコ生放送の場合なら「モジャランドseason2」の手法を利用されることがよろしかろう。この手法については以下を参照されたい。
対策2:ポジティヴなアプローチ
ふたつめのアプローチ。それは、ここまでの考え方を逆手にとって「疎遠な人を友達にしてしまう」ことを目指す手法である。
いままで述べてきた考えを総合すると「友達」を作るには、
- 同じ場所にいる。
- 面と向かう。
- 親しみを感じる。
という条件を上から順番に満たしていけばよいことに気づく。オンラインでのコミュニケーションは擬似的にひとつめの条件を満たすことは可能であろう。さらに、昨今のテクノロジーの発達によってふたつめの条件も擬似的に満たせるようになってきているように感じる。しかし最後の条件の「親しみを感じる」これはどう満たすことができるだろうか?オンラインでのコミュニケーションをひたすら続ければ実現するのだろうか??ここでわれわれは新たなボミにぶちあたることになる、即ち、
- オフラインでのふれあいを「実」、オンラインでのふれあいを「虚」とは考えないし、「ペルソナ」というレッテルには自分の人格を矮小化しているようなニュアンスを感じるけれど、自分の人生という時間軸上に立ち現れるいくつかの自分の役割・土俵を検索キーさえ手に入れられれば検索可能になるネットという一つの場に統合する必要はないように感じる。
また、
- 123 ネットコミュニティ(小)に与えられた属性はオンラインで完結していて、別の条件が加わらないかぎり、成員のオフラインでの関係性には反映されない。
これらの「人間関係の枠組」の視点以外にも、さらにネットでふれあぉうとする人それぞれの性質というものにも目を向けなければならない。
- 100 ネットを使ってふれあおうとする人には2つのタイプがある。それは、偉そうな人と仲良くしたい人である。前者は幼く、後者は悩んでいる。さらにこれらを複合した、仲良くするふりをして偉そうにしたい人と、偉そうなふりをして仲良くしたい人がいる。前者は自惚れているが孤独で、後者はかわいい。
この問題について明らかにするためには、あらたに文章を書き起こさねばなるまい……。そして、この問題が解決できた時、わたしたちは「共通の知人β」や「相手だけの知人」を「共通の知人α」に格上げすることができるかもしれない。